| 鎌倉樵隠塾 |
| 僕が樵隠塾に興味を持ったきっかけ。それは師、小野田雪堂の書の、太田新之介さんの見方、
捉え方だった。 2年前くらいの今頃、僕は雪堂美術館開館に向けて、雪堂先生の書の世界をより多くの方に 知っていただくにはどうしたらいいか考えていた。僕は雪堂先生の書について、書いてみた、、、 [雪堂先生の作品は、派手に大きく字を書いたりするのでもなく、一見わかりにくいかもしれない。 でも、一文字一文字、一角、一点、、それが小野田雪堂という人間の生き方、そのものなんだ] それを見て、新之介さんは僕に言った。 [ノブさん、それは違うよ。見る人が見れば、雪堂の凄さ、深さが一発でわかる。知らない だけだよ] 新之介さんの隣に座っていた雪堂先生は嬉しそうに新之介さんを見つめていた。 [現代の書家で、茶事でかけられるのは小野田雪堂だけだ]新之介さんは言った。 僕はまったく自分がわかってないことに気付いた。 新之介さんはいつも言っていた。 [茶の湯、茶事を体験すると、それが、物事を見る基準になる] 僕は思った。お茶って?堅苦しく、ちょっと気取ったイメージがあった。 新之介さんは言った[カルチャーセンターみたいな茶道教室と茶の湯はまったく違う] 生前、雪堂先生は、[新之介さん、鎌倉で樵隠塾やってよ]ってお願いしていた、、、 昨年9月、雪堂美術館で樵隠塾が実現した。 雪堂先生は本当に嬉しそうに、真剣にメモをとりながら、新之介さんの話を聞いていた。 10月に雪堂先生は亡くなった。たった一度の樵隠塾だった。 僕は先生が知りたがっていた茶の湯の世界に触れてみたかった。塾生になった僕は、夢中に なった。初めて、茶事も体験出来た。 何も知らず、お茶の世界を色眼鏡で見ていた自分を恥ずかしく思った。太田新之介という人間 を通して、見る茶の湯は、ロックだった。ファンキーだった。しびれた。型が、ぶっとい芯となって いた。でもそこにガチガチに固執するのではなく、おでんのこんにゃく串のように、芯があった上 でぐにゃぐにゃに柔軟性があって自由で独創的で、ワクワクした。 僕は日本で生まれ育っていたのに、日本を知らなかった。芯を知らずに生きてた気がする。 雪堂先生の書が何故凄いのか、書が何故、小野田雪堂の生き方そのものだったかが、なんと なくではなく、強烈に響いてくるようになった、、、 茶の湯について、まだまだ知らないことが沢山あります。 鎌倉樵隠塾で、勉強できる茶の湯、日本人が忘れかけている日本、和の心を、北鎌倉で 雪堂先生の書に囲まれて体験できることが、今から楽しみです。 鎌倉樵隠塾生、中村亘利拝 |
**********
| 【鎌倉樵隠塾とは】
わが国では約900年前の鎌倉から室町時代にかけて、茶の湯という特異な風習が生まれ 1.茶の湯の歴史を学ぶ 日本の伝統文化に興味のある方、歴史に興味のある方、茶の湯に興味のある方、お茶を
【カリキュラム】 ■前期 (11月講座は、12月8日(土)へ振替します) ■後期「茶の湯のことわりは日本そのものです。」
主催 雪堂美術館 講師 太田新之介 *当講座は「Sの計画}プロジェクト事業の一環です
|
| 【講師紹介】 太田新之介(おおたしんのすけ) 1945年静岡県生まれ。三島市在住。(株)太田新之介建築事務所主宰 30年にわたり「木の建築」の設計活動をするかたわら、茶の湯に親しんでくる。 22年前、亡母の追善供養の茶事を催したのを契機に、茶事・茶会を行うようになり、現在 まで154回を数える。16年前、自邸に茶室「樵隠庵」を造営した折、茶の湯の面白さと楽し さを共有する友をつくろうと、またそれが、日本文化をかたちづくる基本的な要因になって いることを学びたいと、茶の湯研究講座「樵隠塾」を開く。以来、現在まで180ヶ月約16年 を経て、120名余の受講生が卒業し、共に茶の湯をとおし日常を楽しむようになっている。 平成17年9月から北鎌倉の雪堂美術館に招かれ、鎌倉「樵隠塾」を開講する。 近年は林業の振興、登録文化財の啓蒙、講演活動、「木の建築手入れの仕方、みがき 方」などの指導をし、後進の育成にも取り組んでいる。伝統に根ざした新時代の木の建築 を設計する希少な建築家といわれている。 代表作 著書 賞
☆ 会場のご案内 ≪雪堂美術館≫
神奈川県鎌倉市山ノ内1391−1
|
|
TOP プロフィール インフォメーション ライブ情報 言霊 フォトグラフ メール ディジュリドゥ・イダキについて 想い ドリームタイム 不思議 携帯サイト ニュースレター CD紹介 北斎ーHOKUSAI 日々の感動
|